平成23年8月9日、「被爆66周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に今年も参列した。
早朝の雨も式典が始まるころには止み、66年前のこの日を思い出させるような暑い日ざしのなかで式典は行われた。
原爆資料館などを廻って会場へ行ったときには既に満席、会場に入れない人が周りを取り囲む。何時もより参列者が多くしかも若い人が多い印象。
私は式典終了直後案内に従い、父母を含む犠牲者の御霊に線香と生花を手向け、哀悼の誠を捧げた。
私が今回一番注目したのは、全世界に向けて発信される被爆地長崎市長の「平和宣言」に、福島の原発事故をうけ、被爆地長崎市がどのような姿勢を表明するかであった。
その平和宣言、「
今年3月、東日本大震災に続く東京電力福島第一原子力発電所の事故に、私たちは愕然としました。」で始まった。
「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのでしょうか。
自然への畏れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか・・・。(略)
たとえ長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換を図るために原子力にかわる再生可能なエネルギーの開発を進めることが必要です。」と続いた。
この平和宣言は、市長はじめ市内の学者・被爆者代表12名で構成された起草委員会で、5月から幾度となく議論を重ねて纏め上げられたのだという。それだけに被爆地長崎の核廃絶に対する並々ならぬ決意の程が滲み出た内容であった。
それに対し、菅総理の挨拶、
「原発への依存度を引き下げ、原発に依存しない社会を目指す」は、今の政府・国会の「笛吹けど踊らず」実態を考えると、 今一つ心に響くものがなかった。
今回の式典に参加した印象として、式典会場だけに止まらず、原爆資料館はじめ平和公園内で行われている各種集会への若者の参加者が非常に多かったことである。
背景には、被爆者の平均年齢が77歳を越え、会場にこれない人達が増えていることもあるが、3月の福島原発事故を機会に、放射能に対する関心が高まったことがあると思う。
しかしながら、福島原発事故による被曝の実態とその影響についての報道やその影響を、真剣に考えている人達の心情を嘲笑うかのような発言が一部の人たちによって公然と行われているのも今の日本の姿でもある。
会場入り口に展示されていた写真の中の2枚浦上駅のホームで死んでいる母親と子供
廃墟の浦上天主堂
この場所で再建したいという信者の強い希望とアメリカの何時までも残しておきたくない立場が一致し、当時の市長は保存を断念したのではないかという説がある。
保存できていたら、広島の原爆ドームと同じような被爆遺産になったであろうに、・・・惜しいことである。
これまで2回の原爆による被爆、水爆実験による被曝、原発事故による被曝と過去4回もの被爆・被曝を体験した日本、これを機会に、核廃絶ならびに核に代わるエネルギーについての議論の輪が、夏の線香花火のように終わらず、国民的な広がりになることを願って止まない。