先日福岡市中央区にある「西公園」に行った時、どうにも理解できない幾つかの疑問を抱いたので、それを確かめたくて、続けて2度行くことになった。
最初は、歴史探訪仲間と西公園の程近くにある鳥飼神社で幕末の勤皇の志士平野次郎國臣のことをいろいろ教えていただいたとき、その銅像が西公園にあることを聞かされたので、その銅像を見るついでに4~50年ぶりの西公園を散策してみようと思って、仲間を誘って出かけた。
西公園の登り坂左側にある威風堂々たる平野次郎國臣銅像は訪れる人の目をひく。この銅像は大正4年に建立されたが、第2次大戦中金属供出で撤去され、昭和39年再建されたものである。
銅像には國臣が遺した足跡が分かりやすく刻み込まれている。
平野次郎國臣は、江戸幕府末期の福岡藩士で、知る人ぞ知る「幕府滅亡・国家統一」を訴え日本近代化の扉を開く、いわゆる倒幕運動に身を挺した勤皇の志士。生野の挙兵で捉えられ、京都六角牢に囚われの身となるが、「禁門の変」で京都が大火になったとき、政治犯の破獄を恐れた当局の指図で新撰組によって惨殺された。享年37歳。
本当に久しぶりの西公園だったので、懐かしさもあり公園内を散策してみた。
春は桜の名所(日本の桜の名所100選)として市民に親しまれている場所だから、自然豊な公園をイメージしながら、若い頃花見に行ったことを思い出しながらの散策だったが、想像以上に変っていた。
公園内道路はよく整備され、公園にしては珍しくひっきりなしに車が往来するが不思議に人影が少ない。
だらだら坂の桜林を通り抜けると、展望台がある。そこにも人はまばらで、国道を挟んで南側の大濠公園・舞鶴公園の賑わいに比べ、驚くほど人影が少ない。
展望台からは、博多湾の東側と中央区・博多区・東区方面の眺望が開ける。ところがもう一方の展望台は、一段高い場所だからもっと眺望が開けると期待したのだが、生い茂った木々に阻まれ、ほとんど眺望はきかない。当然のことながら人も寄り付かないので荒れ果てている。何のための展望台だろうか?とふと疑問が湧く。
踵を返し頂上方面へ足を延ばすと、頂上手前に勤皇の志士「加藤司書公」の歌碑がある。
ここには元々、平野次郎と同じような加藤司書徳成の銅像があったが、第2次大戦戦時中金属供出で撤去されたまま、なぜか銅像は再建されず、代わりに歌碑に置き換えられている。
歌碑には有名な今様
「皇御国の武士は いかなることをか つとむべき ただ身に持てる 真心を 君と親とに 尽くすまで」 が刻まれている。
※ 皇御国の武士は(すめらみくにの もののふは)・・・
その歌碑の側に、「加藤司書徳成銅像」と書いた石柱があり、「銅像」部分が塗りつぶされているが、その銅像の文字ははっきり読み取ることが出来る。明らかに銅像があったことを敢えて知らせようとしている意図がうかがえる。 今後銅像を再建することが見込めないのだったら、この部分は「歌碑」と改めるのがいいのではないかと余計なことを考えてしまう。
しかもその石柱は、斜めに傾いたまま放置されている。なんとも理解に苦しむ光景である。
「加藤司書徳成」は、福岡藩の家老職にありながら、平野次郎と時を同じくして幕府解体をめざしたが、福岡藩内の佐幕派による弾圧によって11代藩主黒田長溥に切腹を命ぜられ「乙丑(いっちゅう)の変」、多くの同志と共にこの世を去った勤皇の志士。享年36。
福岡藩士で、同じ時期、勤皇の志士として幕府を解体し新しい日本をめざした二人でありながら、一方は立派に銅像が復元されているのに方や銅像の台座を残した歌碑になるのか、しかも加藤司書の歌碑の周りは手入れもされず放置されているのは何故か。その背景にはいろんな事情があるのかもしれないが、同じ公園内の碑の管理のあり方に、言いようもない違和感を感じてしまった。
更にもう一つ、加藤司書公の石碑のすぐ側に立派な石碑がずさんな状態で放置されている。
何の石碑かも分からない。
私は福岡市に住み着いて15年足らずで、ただでさえ郷土史に疎いこともあって、恥ずかしながら加藤司書に関する知識は皆無に等しかったので、その後、加藤司書の菩提寺「節信院」を訪ね、今まで知らなかった多くのことを学ぶことが出来た。