福岡市城南区の「菊池神社」を、先日仲間と訪ねた。
あれこれ野暮用が多く歴史探訪が途切れがちになっているが、先日城南区は土地勘もないので、区役所を訪れ、区内の史跡を教えてもらった。
区役所では、詳しい資料を見せてもらう等、親切に対応していただいた。
いろいろ紹介していただいた中から、とりあえず「菊池神社」を訪ねた。
調べているうち、菊池一族と博多とは時の政争を廻って関わりが深いことに気がつき、歴史的に大変興味深い史実があることを知った。
説明版には、「1831年、菊池氏の子孫で福岡藩士城武貞が墓碑を建立、1869年最後の福岡藩主黒田長智が、その忠勤をたたえ、この地に社殿を建立した」とある。
鎌倉時代末期の武将菊池 武時(きくち たけとき)は、後醍醐天皇の密命を受けて、鎌倉幕府を倒すことを計画していたという。 後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し、天皇が政治を行う体制に戻そうとしていたのである。
菊池武時は、元寇の役で大きな功績を残したが満足な恩賞をもらえなかった不満もあり、倒幕を決意し、鎮西探題の北条英時を討とうと、筑後の少弐貞経(しょうににさだつね)や豊後の大友貞宗(おおともさだむね)としめしあわせるのであるが、土壇場で少弐貞経や大友貞宗の寝返りに遭い、目的を果たさず討ち死にしてしまう。武時の首はさらし首にされ、胴体を葬った胴塚の場所に菊池神社がある。
菊池武時は討ち死にするとき、長男武重にあとのことを託し、国許へ返す。その後太宰府・博多は、菊池・少弐・大友、そして幕府探題を中心に他の武将も加わり、激戦の地となるのである。