被爆69年目を迎えた8月9日、今年も「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参加するため、思いを同じくする仲間と長崎市を訪れた。
2005年以降9回目の参加。
台風接近で、大型テントが撤去され開放的な雰囲気の会場。
時には青空がのぞく天候であったが、熱暑にさらされることはなかった。
「聞こえていますか 被爆者の声が
あなたの耳に 聞こえていますか
もう二度と作らないで わたしたち被爆者を
あの青い空さえ 悲しみの色」
このフレーズで始まる「もう二度と」の歌、 被爆者による合唱で式典が始まった。
今年はこの最初のフレーズが、ことのほか身に沁みた。
そして11時2分、長崎平和の鐘と同時に、参加者全員が1分間の黙祷を捧げた。
私はこの1分間の間、69年前の被爆の瞬間を、つい昨日の出来事のように鮮明に思い出した。
長崎の原爆死没者名簿登載者数は、この1年間に3,355人となり、合計165,409人に達した。
そして被爆者の平均年齢は80歳になり、被爆体験を語り継ぐ人たちは年々減少していくので、原爆の悲惨さが風化していくことへの危機感を切実に感じる。
反面、時代の変化を映すように若年層の参加者が目立つようになり、恒久平和を願う若者が増えていることへの期待も膨らむ。
昨年同様、長崎市長の「平和宣言」の内容は、被爆体験国としての思いが込められていて、私は全面的に賛同できる内容であった。全世界に発信されるこの平和宣言は、きっと多くの国々の人たちの心をとらえることだろう。
日本国憲法に込められた「戦争をしない」という誓いは、被爆国日本の原点であるとともに、被爆地長崎の原点でもあります。・・・その平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が、急ぐ議論の中で生まれています。日本政府にはこの不安と懸念の声に、真摯に向き合い、耳を傾けることを強く求めます」と。
それに引き換え阿部首相の挨拶は、形どうりで、しかも現在進めている集団的自衛権の行使や原発推進政策とは重なり合わない内容で、虚しさだけが残るものであった。
被爆者代表の城臺美彌子さんは、
「たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者がいのちを落としました」と原爆の悲惨さを訴えました。そして「核兵器禁止条約の早期実現に、被爆国である日本は、世界のリーダーとして先頭に立つ義務があるのに、その役割を果たしているのでしょうか」と、不満・疑問を投げかけた。
私は被災地長崎を訪れる度に、
「何故当時の市長は、浦上天主堂を遺構として残さなかったのか」、当時のまま残されていれば、核兵器の破壊力をもっと世界に示すことが出来るのに、と悔やまれる。
今では原爆の惨禍を想像する事さえ出来ないほど綺麗に整備された爆心地の地下に、今なお眠る多くの御霊に、「安らかにお眠りください」と哀悼の誠を捧げて会場を後にした。
式典終了後私たちは毎年、被爆関連施設を訪ねることにしている。
今年は
「城山小学校」を訪ねた。
城山国民学校は爆心地から西に500mの場所に位置しており、爆心地に一番近い国民学校で、大きな被害を受けた。
校舎は秒速250メートルという猛烈な爆風を受け、東側が3階から崩壊し炎上、新校舎も屋根に大穴が開きその後炎上するなど甚大な被害を受けたという。
写真は国指定の文化財。修復された被爆校舎の一部(中に入ると、
当時の建物の模様や、被爆当時の写真や遺品を見ることが出来る)
校長以下教職員31名と児童約1,400名(全校生徒の八割)が学校または家庭で爆死したと推定されている。 まさに非人道的無差別殺戮である。