8月9日11時2分、平和の鐘が鳴り響く長崎市平和祈念式典会場で、思いを同じくする仲間と1分間の黙とう。 71年前のこの日も、同じように晴れていた。
私は11年前からこの式典に欠かさず参列している。
今年も、何事もなかったように静かな暑い夏の日、長崎市平和公園の「被爆71周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」の会場は、立錐の余地もないほどの参列者に埋め尽くされた。
式典が行われた平和公園
集まった人たちは挨拶をかわす程度で、多くを語らない。大勢の人が集まっているのに、その気配を感じさせない荘厳な空気に包まれる。
亡くなった方々の慰霊と平和を希求して止まない思いを共有している人たちの集まりだからだろうか、それだけでなく「二度と繰り返してはならない」と、被爆で亡くなった方々の地の底からの叫びがそうさせているのかもしれない。
私はこの場に立つといつも、爆心地から1.3キロメートル離れた三菱兵器大橋工場で学徒動員の最中被爆した姉の言葉を思い出す。「あそこは黒山のように大勢の人が焼け死んだところで、被災者の魂が眠っている場所。だから私はそこに立つことはできない」と。
会場内の様子
参列者の中には被爆者と思われる高齢者が少なくなり、代わりに若い人たちの姿が少しづつ増えていく。時代が移り変わる中で被爆実相の風化が気になるが、この会場にいる限り、年齢層が変わっても被爆の実相は変わることなく引き継がれるであろう、と確かな手応えを感じる。
今年の長崎平和宣言で田上市長は、「今こそ、人類の未来を壊さないために、持てる限りの『英知』を結集してください」と、国連、各国政府および国会、NGOを含む市民社会に呼びかけた。
被爆者の平均年齢は80歳を越え、被爆者のいない時代が近づいていることに触れ、
「被爆者に代わって子供や孫の世代が体験を伝える活動が始まっています」と、長崎での取り組みを紹介した。
私がいつもこの式典に参加して感激するのは、市長の「長崎平和宣言」、被爆者による「平和への誓い」。
そして心が澄わたる児童の「合唱」で、参加者とともに追悼と平和を希求する思いを共有する瞬間でもある。
この感慨は、その場にいなければ実感出来ない。だから私はきっと、来年もこの地に立つことだろう。体力と気力があれば・・・。
私は毎年、この祈念式典に参加する機会に原爆被害の跡地を訪ねることにしている。
今年は、爆心地に近い「山里小学校」を訪ねた。
爆心地から北方わずか600メートルの地点で、当日の在校者32名のうち28人が死亡し生存者はたった4人だったという。児童1,581人のうち、1,300人が自宅で亡くなったと推定されている。
建て替えられた今の山里小学校
構内に設けられた原爆資料室の案内役をされている方のお姉さん山口幸子さん(当時9歳)の実話も聞けた。
平和公園の入り口にある噴水の前に刻まれたあの少女が書いた一文「
のどが乾いてたまりませんでしたので、水をくみにいったら、油のようなものが一面に浮いていました。・・・どうしても水が欲しくてたまらず、とうとうそれを油の浮いたままのみました。」は、この山口幸子さんが当時書いたものだと知った。
平和公園入口の噴水と刻まれた少女の作文