茶の湯の心

 5月2日、太極拳の師範宅での「藤の花見」に、気心の知れた仲間数人が招かれた。師範は茶道の先生でもあり、先生の心遣いで、お弟子さんがたててくれたお茶をいただくことになった。

 茶道の心得が全くない私は、ただお弟子さんの作法をじっと見守るだけで、その動作がどうゆう意味があるのか、また、私自身はどう振舞えばいいのか知る由もない。静かな茶室で、正座で足が痺れるのを我慢しながら、時には庭の植木の間から見える藤の花に目をやり気を紛らわしながら、なんと堅苦しい作法だろうと思っているうちに、目の前にお茶が差し出される。
 そして言われるままに、見よう見まねの俄かつくりの作法らしきそぶりで、差し出されるお茶をいただく。なんとぎこちない作法だろうと自分でもふきだしたくなる。

 今まで何度かいわゆるお茶会みたいな場に出会ったことはるが、恥ずかしながら正式な茶の湯を経験するのは初めてである。今回は約2時間くらいの間、最初から最後まで一連の作法を客の立場で体験せていただいた。そのお陰で、茶道の心を全く知らない私でさえ、日本の伝統文化として今なお引き継がれているのは茶道の奥深い何ものかがあるのだろと、ふとそんなことを考え、何かしら心に響く不思議なものを感じた。

 少し気になったので、家に帰ってからインターネットで「茶道」についてのページを一寸だけのぞいてみた。その中に表千家のHPがあった。それによると、 
その伝統は、単なる型の継承ではなく歴史の中でそのあり方が模索され、その時代に即した新たな息吹がそそぎ込まれることで、生きた文化として伝えられてきました。
茶の湯は、おいしいお茶をもって主客ともに楽しみ、心を通わせることに大きな意義があると言えるでしょう。
と書いてあった。

 「主客ともに楽しみ、心を通わせる」この言葉に、茶道の全てが込められているように思う。
この言葉の意義を実現させる手段として、茶室があり、必要な飾りがあり、その中での作法があるのだろう。更に、主客がゆったりとした空間で、心を通わせるゆとりがなければならない。
「型」ではなく「心」、心を通わせるために必要な型=茶室と作法それが茶の湯の心かも知れない。

 何かとあわただしく移り行く現代社会において、時計の針を止めるような、ゆったりした心境になることも時には必要なのかもしれない。そんな優雅で心に残るような別世界を作れるといいな~と、夢みたいな考えが一瞬脳裏をかすめる。

 だが、現実に戻って自分のこれから先、そんな境遇になれるだろうか。???
それはとても考えられない。しがない年金生活者には夢また夢の世界である。
では、もっと心身ともに枯れてからはどうだろうか。
いやいや、心身ともに枯れた時には、「主客ともに楽しみ心を通わせる」心境になれないだろうし、そうゆう間柄も存在しないだろう。 納得!納得!

 お茶のあと、現実に戻って酒席が盛り上がったことが、何よりの証拠である。
b0008825_11105584.jpg

[PR]
by matutaka31 | 2008-05-05 10:53 | 思いのまま | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://matutaka.exblog.jp/tb/8533289
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]


<< 青虫との生存競争 有田陶器市から武雄市御船山楽園へ >>