先日、どうしても観たかった映画「杉原千畝」を、仲間と観た。
私がまだ現職の頃、ある仕事でソ連モスクワとカザフ共和国へ出かけた頃だったと思うが、ある人に薦められて杉原千畝(すぎはら ちうね)のことを本で読み、感動したのを思い出したから。
本を読んで凄く感動した記憶があったことも手伝ってか、杉原千畝が外務省からの訓令に反してユダヤ難民へ大量のビザを発給した事実を描いたこの映画は、最近観た映画の中で最も感動的な作品だったと思う。
まだ観ていない人には是非、この日本人として誇れる実話を描いた大作を、ご鑑賞いただきたいと心からお勧めしたい。
杉原千畝は、外国人にも発音しやすいように「センポ・スギハラ」]と名前を教えていたようで、映画でも「センポ・スギハラ」で描かれている。そのため映画では、助けられたユダヤ人が戦後日本の外務省を訪れ「センポ・スギハラ」を尋ね廻っても、「該当者なし」とそっけなく応えるシーンから始まる。
彼の業績をここで書く必要はないが、ナチス・ドイツの迫害でポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情して、
外務省からの訓令に反して6,000人にのぼる避難民にビザを発給した人道的な行動は、日本人として誇らしく思うばかりでなく、世界中の人からも賞賛される行動として評価が高い。 同時に、日本と同盟国であったドイツのソ連侵攻を批判しながら諜報活動を続けてゲシタボに追われ危うく命を落としそうになる一方、日本政府が戦争に向って突き進むのを懸命に阻止しよとする戦争反対の行動にも感銘させられる。
杉原の行動に感動して難民救済を決断した当時のウラジオストック総領事の思いの根底にあったのは、
杉原の2年後輩でハルピン学院で学んだ「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」であり、この考えで貫かれた彼らの行動は、今の時代にも求められる教訓である。
杉原は戦後外務省を退いた後ソ連との貿易業務に携わっているが、外務省時代の業績は評価されなかったようである。しかしながら外国で評価が高まる中、日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは、2000年10月10日、当時の河野洋平外務大臣のときだったという。
1986年(昭和61年)86歳で人生を全うした杉原千畝は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園に葬られているという。