14年前の1月17日

 阪神大震災14年の報道を見ながら、つい先日であったたような生々しい震災の状況を思い出した。14年経った今、神戸にその爪痕を見ることは出来ないだろう。ましてや神戸市の人口の3分の1は震災後生まれたり転入下人たちだという。
 当時の悲惨な状況は何時までも語り継ぐべきだ、と思いながら当時の様子を記した社内報(神戸震災特集号)を開いて、改めて当時の被災状況を思い起こした次第である。

 当時私は、全国展開するサイロ・倉庫事業を営む会社の役員として、東灘にある神戸支店の震災状況の把握から施設復旧までの陣頭指揮を取った当時の一部始終を思い出し、感慨深いものがある。
 東京の本社にいた私が地震発生の報道を受けて最初に指示したのは、社員とその家族の安否である。 次に神戸支店の施設と保管貨物の被災状況の把握と同時に食料・医薬品等支援物資の緊急輸送であった。

 幸いにして社員とその家族全員が無事であることがその日の夕刻までに確認できたが、 現地の状況把握は、通信手段の麻痺により断片的にしか把握できない。一刻も早く現地に入り、陣頭指揮をしなくてはならないと思ったが、交通手段が麻痺しているだけでなく、現地のガスタンクからのガス漏れの危険のため、現地立ち入り禁止措置が取られたので、止む無く出発を1日ずらすことになった。

 やっとの思いで19日に大阪までたどり着いたものの、現地への交通手段がなかったので陸路の現地入りを諦め、翌20日工事用の船舶をチャーターして海路神戸を目指し、立ち入り禁止の監視の目を盗んで、強引に当社専用桟橋に降り立っことが出来たのは、3日目の20日早朝であった。

 上陸して、電話報告やテレビ等メデイア報道では想像もできない、被害の大きさに慄然としたことを今でも忘れられない。とにかく今までに見たことも聞いたこともない筆舌に尽くしがたい被害内容であった。私は、10歳の時長崎で原爆の被爆を経験したが、それに次ぐ自然災害の大きさと恐ろしさをまざまざと見せ付けられてしまった。

 私は現状を自分の目で確かめ、とるべき対策は何か、そして何を優先しなければならないかを判断してその場で対策を指示することが出来たと思っているし、そのことがその後の迅速な復旧につながったと確信している。

 一方、被災直後から始まった被災者への支援活動は、地元だけでなく全国から温かい支援の手が差し伸べられたのは、実に感動的であった。この支援活動により、どれだけ多くの被災者が助けられ勇気付けられたことか、決して忘れてはならないことである。私が退職後ささやかなボランテイア活動を続けられるのは、この時実感した感動が支えになっているのかもしれない。

 この大震災で得た経験は、その後各地で発生した同様な災害時の私の行動に活かされたことは言うまでもない。これからも同様な災害はどこかで必ず起きるものだと心得、常に防災意識を高めておかなければならないのである。神戸の震災に遭った人、そしてその復旧に携わった全ての人は、この記憶が風化しないよう、いろんな機会を通じて語り継ぐべきだと思う。
by matutaka31 | 2009-01-17 22:20 | 思いのまま | Trackback | Comments(0)
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