「雑草」という言葉の響きは、人夫々異なるようだ。
園芸や家庭菜園に携わる私にとっては、厄介者・邪魔者のイメージが強い。
こじんまりした庭に花を育てたり、猫の額みたいな土地で家庭菜園家を楽しむ者にとって雑草は、まさに厄介者である。
ちょっと手を抜くと、雑草に覆われてしまって、そこの主の不精・無頓着振りを象徴するかのような有様になってしまう。
だから気温が上がるこの時期から、わが家庭菜園では雑草とのシーソーゲームが始まる
取った草は、空いたところに穴を掘り土に埋め、有機質の有効活用を図る。
ところが、「雑草も生えないところに、いい花やいい野菜が出来るわけがない」とする見方だ。
だとすれば雑草が繁茂することは、花や野菜の生育条件が整っていることに違いないので、雑草の茂り具合が作物の生長のバロメーターになるとの見方も出来る。
共存共栄論だ。
もっと好意的なイメージがある。
「雑草魂」、「草の根運動」、「雑草の歌」等々、踏みにじられても、踏みにじられてもどっこい生きている・・・。
あるいは、大地にしっかり根を張って、天に向かって勢いよく立ち上がる・・・のような人生の応援歌的なイメージである。
また、道端の名もない可憐な花を愛でたり、詠ったり・・・癒しの言葉の数々。
むしろこのような好意的なイメージが、園芸・農業を営む人以外は一般的なのかも知れない。
こうした善悪のイメージを吹き飛ばすようなエピソードでこの稿を締めくくろう。
ある日のこと、側近が「ここから先は雑草です。」と昭和天皇に申し上げたところ、天皇は「雑草という草はない。それぞれに名前がある。」と答えられたという。