普段何気なく見過ごしてしまうことでも、ふと疑問を挟むと、そのことがきっかけで今まで知らなかったことや気がつかなかったことが発見できたり、いろんな想像へ発展することがある。
横山大観の「寒山拾得」を観たとき、「寒山拾得」とはどうゆう意味?」と聞かれ、思わぬ質問に私はう~ん・・・と絶句。
「寒山拾得」、どこかで聞いたことがあるようだけど、聞いた本人も聞かれた私も、思い出せなくてすっきりしない。
こうゆう状態を、喉に棘が刺さったような・・・とでも言おうか、なんともすっきりしない。 早速調べてみた。
あれこれ調べてみると、寒山と拾得は二人の奇妙な僧だと分かったが、それが何故絵の題材になるのだろうか・・・と更に疑問が広がる。 大観の「寒山拾得」図には、奇妙な二人の僧が画かれているが、寒山・拾得なる僧のことを知らない我々には殺風景な絵に見えてしまう。
頭の隅っこに残っていた痕跡が引き金になって、ついに
森鴎外の小説「寒山拾得」に行き着いた。
早速小説「寒山拾得」を読んでみた。ところがなんとも分かりにくい小説である。 特に終わりの部分が・・・。
2度・3度と読み返すうち、なんとなく筋書きは分かるような気がしてきたが、いま一まだ溜飲が下がったわけではない。 いずれにしても色々考えさせられる小説である。 森鴎外(1862~1922)
特に終りの部分、
『閭はこう見当をつけて二人のそばへ進み寄った。そして袖を掻(か)き合わせてうやうやしく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋(しひぎょたい)、閭丘胤(きゅういん)と申すものでございます」と名のった。
二人は同時に閭を一目見た。それから二人で顏を見合わせて腹の底からこみ上げて来るような笑い声を出したかと思うと、一しょに立ち上がって、厨を駆け出して逃げた。逃げしなに寒山が「豊干がしゃべったな」と言ったのが聞えた。
驚いてあとを見送っている閭が周囲には、飯や菜や汁を盛っていた僧らが、ぞろぞろと来てたかった。道翹は真蒼(まっさお)な顏をして立ちすくんでいた。』の部分である。
果たして森鴎外は、この小説を通して何を言いたかったのだろうか。 読む人によっていろんな解釈や想像が広がるような気がする。
当時の日本の小役人を揶揄したのか、時の社会を風刺したのか。果たして鴎外の心のうちはどうだったのだろうか。
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