今日は久しぶりに晴れ上がり、PM2,5の飛来も少ないようで、周りの雷山山系の稜線がはっきり見える。
快適なウォーキングが楽しめそうだったので、何時ものルートを変え、山手の農家が多い方へ足を延ばし、機会があれば行ってみたいと思っていた
県指定史跡「宮崎安貞書斎」を訪ねた。
この地に住み着いて十数年になるが、いつか行って見ようと思いながらも、つい・・今になってしまって、のんびりした話である。
県指定史跡「宮崎安貞書斎」
宮崎安貞と云えば、知る人ぞ知る、我が国最初の農書として名高い「農業全書」を著わした農学者である。
そう言う私も、「宮崎安貞と農業全書」くらいの知識しかなく、農業全書にどんなことが書かれているのか、その内容が当時の日本の農業にどのように貢献したのか等々、恥ずかしいけど分っていない。
しかしながら
水戸の徳川光圀は「これ人の世に一日もこれ無かるべからざるの書なり」と絶賛し、八代将軍徳川吉宗も座右の書に加えたほどであったと評されているところみると、日本の農業の発展に寄与した功績の大きさは想像に余りある。
「25歳で福岡藩二代藩主黒田忠之に仕へるが、まもなく辞して隠居し、」とあるが、今様に言えば30歳前後に
“脱サラ”し、自分の思う道を生き貫いたことになる。
「宮崎安貞書斎」の南方約300mの所に、安貞の墓もある。
安貞の墓「眞如院休閑道居士」と刻んである
今日は、好天に誘われ何時もより長い2時間近いウォーキングのお陰で、地元の偉人の足跡を知る、ご褒美を頂く一日になった。
宮崎安貞とは
宮崎安貞とは
元和9年(1623)安芸国(広島県)生まれ、元禄10年(1697)75歳で没した。
25歳の時、福岡藩二代藩主黒田忠之に仕えるが、まもなく辞して隠居し、九州・山陽・近畿の諸国を巡遊し、あまねく老農の経験談を聞き、種芸の実際を観察した。
その後、志摩郡女原村(現 福岡市西区女原)に帰り、土着して、一介の農民として郷土の農業改善、民生生活の向上に尽くした。
この間、宮崎開などの新田開発も指導しながら、中国の農業書である「農政全書」を参考として、自己積年の体験を収集し、元禄9年(1696)不朽の名著「農業全書」(10巻)を著わした。この書には、貝原益軒の序文が寄せられている。
農業全書は、我が国最初の農書として名高く、明治に至るまで版を重ね、農業技術の基本図書として読み継がれてきた。