NHKテレビ大河ドラマ「軍師官兵衛」が、この福岡にどのように関わってきたのか興味があり、黒田官兵衛にちなんだイベントに参加している。
先日も、 あ・るっく福岡主催の「時を駆ける 黒田家ゆかりの寺社町めぐり」に、歴史探訪仲間と参加した。
今回は、詳しい案内人が付いた寺社町めぐりだったので、
福岡の地名が元は「福崎」だったのを官兵衛の祖父の生地「備前国福岡庄」にちなんで(福を盛る)福岡と名付けた等、今まで知らなかった黒田藩にまつわる裏話なども聴くことができた。
最初に訪ねたのは福岡藩祖黒田官兵衛、初代藩主長政などの墓所がある、臨済宗崇福寺。
崇福寺山門 県指定有形文化財。かつて福岡城の本丸表御門であったものを、1918年(大正7年)に、崇福寺境内に移築された。
藩祖 黒田官兵衛(如水)の墓 初代藩主黒田長政の墓
次に訪れたのが、二代忠之、三代光之、八代治高の墓がある東長寺。
正面が忠之の墓、全面左右に殉死者5人の墓がある
これまで福岡藩に着いての史実は、史跡を訪れる度にいろいろ学んできたが、今回、改めて二代藩主忠之についての疑問が浮かび上がってきた。
黒田官兵衛の長男で関が原の戦いで効を上げて52万石を授かった初代藩主黒田長政が、跡継ぎにしたくなかったほどの長男忠之とはどんな人物だったのか、そしてその忠之をかばって長政の死後二代藩主に押し上げた家老「栗山大膳利章」との間に何故後の「黒田騒動」になるような諍いを起こしたのか、また、今まで訪ねた寺社に忠之が関わった記録が多く残っているのは何故か、謎をを探れば探るほど興味津々である。
更に疑問は広がる。
黒田家の墓所は、同じ地でありながら、藩祖黒田如水、初代長政、四代綱政、六代継高、七代治之、九代斉隆とその一族が臨済宗「崇福寺」境内に、そして二代忠之、三代光之、八代治高の墓は真言宗「東長寺」と分かれたのも、東長寺が二代藩主・黒田忠之によって現在地へと移った経過があったとはいえ、あながち忠之の行状と無関係とは思えない。
黒田騒動にまで発展してしまった原因に、忠之が今で言う「イエスマン」を重臣に集めたことがあげられるだけに、忠之がどんな藩政を施したのか分からないが、長政の殉死者は1名なのに忠之にはは5人の殉死者がいたのも謎めいてくる。
殉死は、4代将軍徳川家綱は1663年、寛文令で殉死を禁止されたが、有能な家臣を失わないためだけではなく、これまた曰く言いがたい背景があったように思える。
歴史探訪は、知れば知るほど興味が湧いてくる、これからも延々と続きそう。