週1回通うNHK文化センター太極拳教室の先生が今日、含蓄のある話をしてくれた。
この先生はいつも生徒に、休憩時間を利用して、太極拳動作の理論的な解説をするだけでなく、練習のモチベーションを高める話をしてくれる。そのため充実感を味わえるのでありがたい。
今日の話は、「底なし釣瓶(つるべ)で水を汲む」だった。
先生の話は結論だけだったが、帰ってからネットで調べると、その話というのはおおむね次のようなもの。
写真はイメージ(ネットより借用)
昔ある所に、息子がいない長者がいた。
長者は、親孝行したいという息子を募集した。すると息子になりたいというたくさんの若者が集まった。
長者は集まった若者に、息子になるためには、夕暮れから朝の一番鳥が鳴くまでの間に、底のない釣瓶を井戸に垂らして水を汲み、樽一杯にするよう難題をぶっつけた。「底なし釣瓶で樽に水を一杯にするなんてことはできない」と集まった若者達は、「馬鹿馬鹿しい」と言ったかどうか、その場を去ってしまった。
ところが一人の若者だけは「自分のお父さんに なる人がそう言うのであれば一生懸命やりましょう!」と夜を徹して底なしの桶で水を汲み続けた。
底なし桶でもしずくが付く。くみ上げる度に桶についた雫が積もり積もって、一晩のうちに樽に水がいっぱいたまっていたという。
それを見た長者は、立派な後継者ができたことを大変喜び、それから二人は仲良く幸せに暮らすことができた。・・・という話。どうやらこの話は中国の諺らしいが出典はわからない。
不可能だと思えることでも、地道に努力を重ねれば必ず報われるの例えとでも言おうか、何事も合理主義一辺倒のこの頃の風潮に、一石を投じる話である。
私は太極拳を始めて、かれこれ11年になる。
それまで健康管理と趣味を兼ねて、いろんなスポーツをしてきたが、最後に行き着いたのが太極拳だった。
試合があるわけでもなく、お披露目の演舞をするわけでもなく、ただただ健康管理のつもりで、10年1日のごとくただ練習あるのみの太極拳。
それでも続けているうち、次第に太極拳の奥の深さに引き込まれ、気が付けば11年になってしまった。
私にとって太極拳の練習は、上手、下手の問題ではなく、いかに自分の体に効くかが、テーマである。
その日その日の練習の成果あるいは効果は、目に見えるほどのものではない。でも地道に練習を重ねていくうちに、なにかしら体にいい結果をもたらしているのではないかと思うようになった。
底なし釣瓶で水をくむような練習の日々だけど、もし太極拳をやっていなかったら、私の体はもうすでに朽ち果てていたかもしれない。
そう思いながら、これからも焦らず急がず、底なし釣瓶で水を汲むような練習をを続けることにしよう。
お・・わ・り