野村望東尼の墓が福岡市にもある、と聞けば多くの人がえっ?と思うかもしれない。
福岡市の幕末史に触れたことのある人なら、望東尼と言えば「勤王歌人」「平尾山荘」「姫島」「高杉晋作」そしてその墓は山口県防府市と思うだろう。
先日縁あって、福岡市東区吉塚にある大宝山明光寺(みょうこうじ)「明光禅寺・曹洞宗九州管区教化センター」を訪ねたとき、境内に勤王歌人「野村望東尼」のお墓があることを知り、和尚さんにお話を聴くことが出来た。
明光寺本堂(この左手に望東尼の墓がある)(野村望東尼は、高杉晋作の死を看取った後、山口県三田尻でこの世を去った。お墓は山口県防府市にある。)
5年前このブログで私は、野村望東尼についてのあらましを投稿したが、このことには気がつかなかったので、境内の案内板に書かれていたのを基に、望東尼の生涯に改めて触れてみよう。
望東尼は40歳の時、夫貞實と共に、花鳥風月を友に自適の生活を送るため、今の福岡市平尾に山荘を作り(平尾山荘として現存 右写真)隠居したが、そこでの平穏な日も長く続かず、54歳の時夫と死別する。
夫の初七日が済むと、博多の明光寺で得度剃髪し、修行をして「招月望東禅尼」という法名を授かった。この時の遺髪を葬ったのがこの明光寺にあるお墓である。 (得度剃髪とは、出家して仏門に入る者が髪や髭を剃ること)
望東尼の墓(円筒形) 墓碑に「望東禅尼墓」と刻まれている その後上京した望東尼は愛国精神の自覚を強め、福岡に帰った望東尼の山荘には平野國臣初め筑前の勤王の志士たちが集まるようになり幕末の志士たちの隠れ家となった。長州の高杉晋作も一時難を逃れてこの山荘に潜伏したという。
1865年6月幕府の圧力により、藩主黒田長溥(くろだながひろ)の命で筑前勤皇党の藩士は捕縛拘束され,家老加藤司書以下7名切腹、月形洗蔵以下14名斬首、その他流刑、謹慎は100名以上という処罰者を出した。(乙丑の獄)
その時望東尼は、糸島沖の玄界灘に浮かぶ孤島「姫島」へ流刑となるが、10か月後、高杉晋作が救出の手配をして望東尼を脱獄させた。
(写真は姫島に現存する望東尼の牢屋)
その後望東尼は下関で病床の高杉晋作と再会を果たすが、翌年、晋作の死を看取ることになる。
病床で新作が「面白き こともなき世も おもしろく」と詠むと、望東尼が、「住みなすものは 心なりけり」と下の句を詠むと、新作は「おもしろいのう」と笑って29歳の生涯を閉じたと言われている。
勤王の道を歩んだ望東尼が残した歌の中に、若い女性に贈る歌がある。
「ひとすじの 道を守らば たおやめも ますらおのこに おとりやはする」
(一途に信念を貫けば 女性も男性に劣りはしない)
今の時代にあっても、女性を勇気づける歌に違いない。
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